ブーツの呪い編 3

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 デート当日。
 髪の毛をアップにまとめる。
 これだけでも普段の私とはイメージ違うので、知り合いでもちょっと見ただけではわからないだろう。
 そして、ブーツ買う時に被ったニット帽。
 コンタクト外してメガネにする。

 昨日準備したものを全部着込んで、時計は豆G、安いブレスレットをガラガラと多目に腕に通し、普段の私と対極の、ちょっと派手めなコになった。


 玄関にブーツを置く。
 ここから一歩外に出たら、もうこのブーツに身体を全て預けるしかないんだ。
 ジッパーを下げ、暗黒の靴底を覗き込むと、晒し者にされる奴隷の気持ちがパアアッと脳裏に甦ってくる。
 そして、縄の時みたいに他人によって不可抗力で連れ出されるのではなく、今回は自分の意思で、自分の足で外に出るというところが、私の心に激しい羞恥と葛藤をひき起こしている。

 足を差し入れる。
 ああ……
 あの首輪で、
 あの公園で、
 あの公衆トイレで、
 あのグランドで、
 あのラポックで感じた、
 非日常がドロリと日常を侵食する瞬間。

「はぁっ……」

 両手の指の節を緩く曲げ、
 指の隙間も開いた荒い手のひらで顔を覆い、
 その下で思い切り蕩けた淫らな表情を浮かべて、
 ねろりと唇を舐めた。

 もうひとりの、秘密の私が、目を醒ます。

 ジッパーをゆっくりと引き上げると、完全に両足がブーツに馴染み、奴隷として完成し、後戻りできない気分になった。
 背を伸ばし、目を閉じ、手をそっと後ろ手に組んで、晒し台に載せられていることを全身で感じた。
「ああ……」
 上ずった声が出る。

 コートのポケットから携帯を取り出し、カオルに電話する。
「仕度できたわ。今、玄関」
『うちの前は通過して、エレベーター前で集合な』
「わかった」
 早く追い付いてね、カオル。
 壁一つ隔てた隣の玄関で、同じように待ち構えているであろうカオルに、念を送るように携帯を握り締め、玄関の扉を開けた。

 私の、処刑の、一日が、始まる。



 カツ……

 カツ……

 カツ……

 接地の瞬間に少しフラつくけど、案外平気じゃない。
 ……なんて、自分を抑えているように見えて、実は意識をプライドとか日常とかの方へ持って行っておかないと、すぐにでもグズグズに崩れ落ちそう。

 カツ……

 カツ……

 カオルんちの前を通過。

 背後で扉の開く音。

 カツ……カツ

 カツ……カツ

 カツ……カツ

 足音が重なる。

 カオル…… よね?

 怖くて振り向けない。

 カツ……カツ

 カツ……カツ

 やっとエレベーター前に到着。

「ふぅ……」
「(おっす)」
 カオルが後ろから小声で話しかけてきた。
「(ああよかった、カオ……)ブーーーッ!!」
 振り向きざま噴いちゃった。
 だってそこには革ジャン・ジーバン・頭はジェルでキメキメの知らないおにーちゃんが立ってたから。
「(か、勝手に笑え)」
 エレベーターが来たので乗り込む。

「プアッハッハ! なによそれ! こないだよりさらにオカシサに磨きかかってんの!」
「ちぇっ、ナナだってそんな……」
「そんな?」
「そんな…… くそう、かわいいじゃねぇか。 おっと、先に用件だ。エレベーター降りたら、駅まではまた離れて歩くからな」
「うん」
「後ろから確認したけど、一応足首の不安定さは無いみたいだな。絶対無理すんなよ。捻挫でもしたらクラブにも影響すっだろ」
「うん」
 カオルの言葉がスッと胸に入る。
 これが、これがこの『息抜き』を続けていける理由。
 Sを気取ってるけど、危うげなご主人さま。
 でも全力で私のこと想ってくれているのは、言葉で言わなくても充分にわかる。
 まだまだ役不足だし、私だって形としての「ご主人さま」って表現は今みたく脳内で思うだけで、カオルにはまだご主人様なんて言ったことなんてない。
 絶対服従とか、今んとこ全然そんな気分じゃないもん。
 あくまで『息抜き』をサポートしてくれるパートナー。

 恋人ですらない。

 ―― ポン ――

 無機的なチャイムの音がして、エレベーターが一階に着いた。

「先に出て」
「うん」

 いつものマンションの廊下、いつもの階段、いつものドアが、全く新鮮に見える。
 郵便受けも妙な感じに見えると思ったら、目線の高さが10cm以上も違うので、見える段が違うのだ。

 つま先立ち。
 晒し台。

 そう。
 一歩一歩、噛み締めて。


 普段の街、日曜の朝の街が、すごくきもちいい。

 今のような明るい街中では、意識の拡散が多すぎて、室内や夜ほど淫らな方向へ気持ちが流れないけど、今私は、確実に『呪い』の中に居る。


 でもブーツなんて巷(ちまた)にありふれているのに、なんで私だけこんなことになっちゃってんだろう。
 ほら、あの人も、あの子も、別にフツーに履いてるじゃない?

 信号や車通りの多い脇道では、カオルがすぐ後ろに接近しているのがわかる。
 まるでストーカーね。

 信号、赤だ。
 今のように止まってる時は、無意識に殆どの体重を踵に掛けている。
 これは今の私の立場からはやっちゃダメなことかもしれないけど、こういう仕方ない「休め」の瞬間が無いと、今の状況は維持できない。
 この先、日常の中でこんなことを続けて行くとすれば、これはとっても大事なコトのように思える。
 首輪や革製の枷を嵌めた時の微妙な余裕や、縄を締め込む時の力加減のように、緊張の中の余裕が無いと、傷ができたり鬱血して消えにくい痣(あざ)を作ったり、大変なことになるんだ。
 今、少しだけつま先を休めていられるから、また歩き出す時、軽やかなつま先立ちで歩けるんだ。

 歩行者用信号が青になり、またスウッと息を吸って、体重を移動する。
 もう、私にはヒールは無いのと同じ。
 接地するけど体重は殆ど預けない。

 他のコのブーツがまた目に入る。
 ああ、あんなのは普通の靴だ。
 あれも、ただブーツの形してるってだけで、今の私の状況とは違う。
 あのコの、随分ヒールが高いな。
 私もあんな感じに見えるのかな?
 でもあのコはドタドタ歩いていて、あれじゃ結局、傾斜が急な普通の靴だよね。
 あーあー、あんな細いヒールに体重載せるのが癖になってるから、歩く度に踵がズレてるし、ヒールの先端が斜めに減っていてみっともないな。
 こうしてつぶさに観察すると、結構いろんなのあるね。

 私はと言えば、足の甲をピンと伸ばし、てか伸ばされて、一歩一歩確認するようにスタッ、スタッと歩く、てか歩かされている。
 踵に負担をかけず、かといって過度のつま先立ちにもならないようにするためには、あのコのようにガニ股っぽく歩くなんて不可能だ。
 自分の歩く向きに、身体の軸に近い真っ直ぐな延長線を想定し、その線上に自分の足を置く位置を決め、そこを正確に踏んで行く感じ。
 新体操の選手が平均台の上を歩く姿に似ているかも。


 あ、もう駅だ。

「ふぅ…… ふぅ……」
「(大丈夫か、ナナ。 まだ誰か知ってるヤツと会うかも知れないから、まだ離れてろよ)」
「(うん、平気。 私、少し慣れたっしょ? わかる?)」
「(ああ、でもあんまり慣れちゃうとつまんないな)」
「(ちが! バカ、あとで説明するけど、慣れるってゆーか、とんでもないコトになってんのよ私。だれかさんの掛けた呪いのせいで)」
「(そ、そうなの? ま、まぁ、ナナが『息抜き』できんなら、オレは何だっていいんだけどな)」
「あ、電車来た」


 比較的空いていてラッキー。
 席もあちこち空いていたので、カオルと一緒にミニの裾を気にしつつストンと座ったら……

「わあっ!」

「どうした!」
 ボッと真っ赤になる私。
 ヒールが高すぎて、お尻がイスに沈んでもまだ膝が高い位置に残り、一瞬、向いの人にヘンタイっぽいM字に股開いた格好になったからだ。
「やっぱ立つ」
「えー? あ、そういう時な、膝を合わせて足を揃えて、斜めに流すといいそうだぜ」
 ちょっと腰を前に出して、足を揃えて斜めにする。
 かわいいし、ミニのことも気にしなくて済む。
「あ、ほんとだ。なんでカオルが私より女の子の所作に詳しいのよォ!」
「まあネットで見ただけだ。つうか、ナナの方が知らなさすぎだろ」
「バカバカ、こんなカッコしたことないから知らないもん!」
「はいはい」

 あはぁー、なんだか二人で電車乗って、楽しいなぁー

「ところで、どうなんだ? その……」
「な、何が……?」
「履いた感じ…… とか……」
 私はまたカーーッと赤くなった。
 そっか、この何日かは私ばっかり一人で盛り上がってたから、カオルはその様子を知らないんだった。
 細かく説明すんのはハズくて死にそうだし……
 何かうまい言い方ないかな……

「…… …… ッス」
「そんな下向いてボソボソ言っても聞こえねぇよ」

「…… ……てマス!」
「ハア?」

「んもォ! きっちり呪われてマス!! ってば!」

「…… ……」
 カオルが固まった。
「わあ! カオル、鼻血!鼻血!」

 それ以来、カオルもなんだかドロンとした表情になっちゃった。
 カオルの心の中まではわかんないけど、コイツ、ここまで私がハマるとは思ってなかったのかも。
 なんかちょっと悔しい。
 ま、いっか。



 そうこうしてるうちに電気街に着いた。
 ハァー、カオルは喜々として歩くけど、こんなとこのドコが面白いのかしらね。

 カオルがティッシュ配ってるメイド姿のコに鼻の下伸ばしてる。
「コラ」
「あんなのもいいよな」
「言っとくけど、私、着ないから」
「あれで全部ラバー製のがあるんだぜ。高くて買えないけどな」
 ドキ。
 ああもういやだいやだ。

 電車で足を休めたせいか、少し慣れた歩き方になってしまってる。
 ガツガツと踵に頼ってる。
 初心に戻って、カツ、カツと丁寧に歩く。
「その歩き方…… ナナってやっぱスゲーよな。呪われてるってのは本当だったんだな」
「うっさい」

 大型の電気店に入る。
 地面の質がツルツルのリノリウムに変わっても、気持ちと所作は変わらない。

 つま先立ちで。

 晒されて。

 処刑されて。

 ああ……

 エスカレーターが更なる処刑へ誘う13階段のようにも見えてしまう。

「ヒールが溝に噛まないようにな」
 ボーッと夢見心地の私に、カオルのアドバイスが割り込む。
「うん」
 咄嗟に踵でエスカレーターの目地の凸部を踏む。
 実際には踵にあまり体重掛かってなかったので、仮に凹部を踏んだとしても、抜けなくなるほど嵌ることはなかっただろうけど、やっぱりカオルの存在が嬉しくなった。

 カオルは私のスカートの中を気遣ってか、私のすぐ下の段に立ち、下から見上げる人の視線を自分の体で遮っている。
 カオル自身はといえば、自分の目線の高さにかなり近い位置で、私がちょっと体を動かしただけで、フワリと揺れ拡がるプリーツが気になって仕方ないようだ。

 とりあえず2階で降りて音楽プレーヤーのイヤホンを見る。
 カツ、カツと丁寧に歩くよう心掛け、ショーケースを覗く時の横移動は、カクッとならないように注意して体重を移す。
 しかしつま先立ちを意識していれば、足首を含めて力が入っているので、捻挫の心配は殆ど無い。
 ヒールの先端が配線とか床の目地に嵌まらないかが心配。

 この人混みの中で、私だけが特別な辱しめを受けているんだという想いに、身体が熱くなり、ボーーッとしてしまう。

「すげーな。イヤホンが6万かよ」
 カオルがショーケースを冷やかしている。
 カオルと腕を組む。
「わっ」
「どうせ誰だかわかりゃしないんだから、いいでしょ」

 その時、隣のパソコン消耗品のフロアから聞き覚えのある声が響いて来た。

「キャハハ、やだぁ、会長でもそんなことするんですかぁ?」

 ユカリ!!

「げ、睦月!」
 カオルも気づいたようだ。



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